のぶさと便り のぶさと今昔

今回は投稿版。子ども時代の思い出・・・

投稿してくれたのぶさと生まれのKさんは、かつて中学校の先生をしていました。

 

 

のぶさとの野山が子供たちの遊び場だった
のぶさとの野山が子供たちの遊び場だった

  中学校の教材で扱うため、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」に初めて出会ったとき、はっと胸を抉られる記憶が蘇った。
 昭和20年代の少年にとって、遊びは、自分たちで作り上げる工夫なしでは、考えられない。

 2~3人集まれば、パッチンやおはじきの陣取り、釘さし(雨上がりの地面に釘を刺して相手を閉じ込める遊び)将棋、ため池でのつり等が挙げられる。5~6人になると、三角ベースや鬼ごっこ、かくれんぼ、相撲、騎馬戦、ケンケン相撲と幅が広がる。

 
雪の日の楽しみはそり遊び
雪の日の楽しみはそり遊び

 遊びの種類もさることながら用具にも工夫が必要だった。冬の「そり遊び」がある。滑走面は、かたい木材の山桜、クリ、クヌギ、クルミ等を使って自分で作る。圧雪の道路では、よくすべるが、曲がりくねった氷の道は横に滑ってうまくいかないので6番線の針金を滑走面に埋めこもうとしたが、かたくて難しい。風呂焚きの時焼いて石の上で加工して取り付けた。そりを二つ繋げてかかとを乗せるハンドルもつけた。初め針金で繋げたが、「ボルトナット」がほしくなった。

 
これが60年前の手作りそりだ
これが60年前の手作りそりだ

当時水力発電所の建設が盛んであり、犀川でも大工事が行われた。土の運搬は人力によるトロッコだった。そのレールをつなげる部分に格好のボルトナットが使われていた。レールが外れたら大変なことになるという意識より、欲しいという欲求の方が勝ってしまった。安全面から当然素手で回せるものはほとんどなかったが、何とか一本失敬してきて取り付けた。そりの機能は、格段に向上し思い通りの機能に得意だった。水をまいて道路を凍らせるという整備?もした。そこに妊娠しているボウがすべって転倒した時は、子どもながらに大変なことをしたと冷や汗をかいたが、大事なく助かった記憶もある。
 このそりは、今も物置の隅に苦い思い出と共に存在している。
 この技術?で下駄スケート作りにも挑戦した。坂道ではうまくいったが、平面では、氷を蹴ることや横滑りで満足できなかった。
そこで、篠ノ井の鍛冶屋さんを訪ね、親に100円位ねだって、半日がかりで滑走面だけ作ってもらった。下駄は、柱の切れ端をなたで割り、穴は火箸を焼いて作った。夢中になって滑り、フィギアの真似までできるようになった。多くの友達に広がった。

 
のぶさとにはため池が多い。池でのつりも楽しみだった
のぶさとにはため池が多い。池でのつりも楽しみだった

 釣りにも苦い思い出がある。ポン(シナイモツゴという絶滅危惧種で貴重な淡水魚。糸が垂れるまでに餌をとる厄介な魚だった)や鮒は釣っても叱られなかったが、蛋白源のために鯉が飼われている池があった。同級生のO君と叱られる池に挑戦した。鯉がかかった時、水田の見回りのために来た地主に見つかり、追いかけられる羽目になった。釣り上げた鯉は其の儘にして逃げた。
 O君より自分の方が足が速いので安心して逃げた。O君はと振り返ると植えたばかりの田んぼの中を逃げてくる。稲をぐちゃぐちゃにしながら・・・
 地主は稲の方が心配で追いかけるのをやめた。彼の機転の素晴らしさに敬服した。

 これも苦い思い出だ。

 

 

 

のぶさと今昔 これまでのお話

北アルプスと山布施地区
北アルプスと山布施地区

 今ののぶさとは、各戸に自家用車がそろい、農作業にはもちろん軽トラックで行く。大半の家が長い冬の暖房や家事に、灯油や電気を使っている。決して「不便ではない」山の村である。

 しかし、生活が一変する前ののぶさとには、「便利すぎる」我々が忘れてしまった生活の知恵や、人々の助け合いの暮らしがあった。そんなのぶさとの昔話を、山布施地区の古老・ひでさんに語っていただく。シリーズでお届けします。

 

山へしば刈りに

信州のおやき
信州のおやき

  今みたいに便利になる前、電気やガスもなかったずいぶん前の話だけど、ここではいろいろなものを燃料に使っていたね。

 信州のおやきは有名だけど、おやきは、木の葉や小枝を炊事なんかに使ったあとの、その残り火で焼いたもんだった。切り干し大根、野沢菜、なすと中身はいろいろあったが、おれはなすが好物だったな。

「木の葉(きのは)」は大事な燃料だった。もちろん粗朶(そだ)や薪も使っていたけど。木の葉集めはとくに、子供のしごとだったな。

 
背負子(しょいこ)
背負子(しょいこ)

 小雪が融けた4月ごろ落ち葉が乾いたら、小学校から帰ってきて、木の葉を山に集めに行ったもんだ。農作業が忙しくなる前に、燃料をためておいたんだね。小学校の2,3年になるともうやってた。

 木の葉を集めるのはけっこう大変だったけど、道具も山で作った。50センチ程の粗朶とひもをおいて、葉っぱを上に置きグルグル巻きにするんだ。それを一束(いっそく)、二束(にそく)とたばねていって背負子(しょいこ)にうまく乗せて運ぶ。おれは三束はしょえたから、うまかったほうだ。

 家には葉っぱを置いてておく一~二間(けん)の木の囲いがあったもんだ。そこに入れては使い、入れては使っていた。かまどや風呂のたきつけや、とにかくなんにでも使ったよ。

 一束二束といえば、当時はまだ馬に荷を乗せて運んだりしたんだけど、馬は左右に三束(さんぞく)ずつ、計六束で運ぶようにしてた。それを「一駄(いちだ)」とよんでたね。そういやあ、「駄賃」て言葉が今でもあるけど、ここからきてるのかもしれないな。

 
荒れた里山
荒れた里山

 それから、桑の木も枝がずいぶん出るからそれを切って使ったし、収穫したあとの豆の茎、これも使った。うちには「ぼー」がいたから、豆の茎はその餌にもなったね。だから、いろいろなものを炊事や風呂を沸かすのに使ったんで、そうだねえ、薪は人が家に来たときとか、そういうときに使ったもんだ。

 当時の山は、だからいつもきれいになっていた。仕事をするときに服に枝がひっかかったりしなかったし、足元もきれいになっていた。小枝なんかもみんな利用していた。 

 今は山も荒れてしまっていて、里との境がはっきりしなくなったので、イノシシや鹿の食害が大変であちこちでやられちゃう。昔はそういうことはなかったのになあ